『寂しい~っ、、さびしいよぉ~っっ!!!!』
当時、お向かいの90歳を過ぎたおばあちゃんが我が家を訪問・・・戸口で叫んでいたものだ。
当初、それが痴呆からきているものだとは知らず、家の中に招き入れて話しを聞いてあげたこともあった。
その行為そのものは痴呆から来ていたのかもしれないが、 寂しいっていう気持ちはおばあちゃんの心情そのものだったのではないだろうか! 確かに彼女の魂は寂しさを訴えていた。
息子やお嫁さんたちと同居していたのに、寂しいを繰り返す人だった。
仕事に家事に孫の子守にと目一杯体を動かし、休む暇もなく多忙を極めていた私は、そのおばあちゃんの対極にいた。
若くして嫁いだその日から、幼い頃は病弱で学校にも行けぬ程だったのが嘘のような日々が私を待っていた。体を動かすことに苦はない・・大人になって健康に恵まれたわたしは、夫の仕事を手伝い、老いては娘の仕事を手伝い、孫の世話もしてきた。
生きる為、家族の為、体を使い切ることに異存はなかった。
なのに、そんな私に・・・・・・。
随分といくつもの夜を越えて、あの時のあのおばあちゃんの年に近づいている。
娘たちが巣立ち、夫を見送り一人になった時、神はわたしに試練をお与えになった・・といかいいようのないアクシデントに見舞われた。
悪いことが重なり、外を元気に好き勝手歩き回れない体になってしまった。 人生の大半を人一倍動き廻り勤勉に生きてきた私にとって、動ける範囲が限られた毎日はつらい。
一日の大半をほとんど家の中でしか暮らせなくなった私の為に、娘たちが本やドラマ&映画等、勧めてくれる。
働く事しか知らずに生きてきた私は、ドラマを楽しむこともできず、勧められて何冊か読んではみたが、本だって進んで読みたいとも思えない。
何もすることがなく過ぎゆく日々に寂しさが募る。
昔住んでいたあのおばあちゃんの姿がだんだん自分と重なる。
娘に"つまらない" と愚痴を言ってみる。
一年前からピアノを始めた娘がピアノを弾くことを勧めてくれたので弾いてみる。
片手で童謡が弾けるようになった・・・少し 心が弾む。
娘に子供の頃習わせていた習字を、今は私が娘から教わる。
何かに向かえるっていいっ。
娘がサポートしてくれるから・・・・・・
近所の友達とホテルのレストランで食事をし、楽しい語らいをしつつお茶をする。
ご近所の友人たち共々、送迎共に、アッシー君を申し出てくれた娘。
娘や友人たちに支えられて、時々顔を覗かせる寂しさをねじ伏せ、今日も無事に精一杯の一日を終える。
ハンディキャップを背負った孫も、さまざまな事に挑戦し、時には涙することもあるのだろうけれど、力強く生きている。
父親の愛情を貰い損ねて過ごす不憫な孫たちも、自分の足でしっかりと地を踏みしめ前進している。
子供のいない娘は淋しさもあるだろうけれど、若い頃から精進してきた仕事に今も打ち込んでいる。子供に向けるべきエネルギーを友人や趣味に注ぎつつ、自分の暮らし方へのスタンスをしっかりと確立している。
「おかあさんっ、することなくて暇で寂しいってぇ~??? ほんとっ 私と代わってあげたいよっ。
本は読み放題に・・・・インターネットはしまくりってぇ~? なんて素敵な日々。 わたしの辞書に'暇'の二文字はないからねぇ~っっ。」 ・・と のたまう娘もいる。
長年勤めていた会社を辞め、体が不自由なわたしの側にいてくる娘も私を横目に見つつ、たくさんの友人と、今日はあっち、明日はこちら・・・と、今までしたくてもできなかった空白のお楽しみの時間を取り戻すかのように、日々、精力的だ。
そんな3人の娘たちも、そして孫たちにも、いつか淋しい時代が訪れるのだ。
その時、何が・・誰が・・・彼等の支えになってくれるだろうか!
寒い冬の夜、そんな想いに囚われる。