石橋 湛山 (いしばし たんざん)
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第55 代 日本国 内閣総理大臣
在任期間
1956年(昭和31年)12月23日
~ 1957年(昭和32年)2月25日
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脳梗塞で倒れたため、総理在任2ヶ月という、短期間で総理を退陣した。
こんな気骨のある政治家がいらしたんですね。
戦前、軍国主義まっしぐら・・アジア侵略(植民地化)を推し進める帝國主義に異を唱えた
ジャーナリスト時代。
植民地経営の経済的非合理性を説き、大東亜共栄圏の思想を否定したために国家から弾圧を受ける。それでも主張を曲げなかった。
この時代に・・・国の政策と異なる意見を真っ向から言えた・・というのが、すごいなぁ~と思います。
戦後、吉田内閣時、吉田茂から経済立て直しを託されて大蔵大臣に就任。
このとき、誰も言い出せないようなそんな問題をはっきりとアメリカに発言した 湛山(たんざん)。
それは、当時、日本の財政をかなり圧迫していた「進駐軍の経費」について・・である。
「もっと 削減せよ」と、詰め寄った 湛山(たんざん)。
引用文:***********************
進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めていた。
アメリカは 日本の負担額を2割削減することにした。
*諸外国の評判を気にしたことと、
*以後の統治をスムーズに進行させることを考慮し、
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戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から
心臓大臣と呼ばれた。
その後、1947年にGHQ(米)の公職追放令により公職を追放されましたが、、、
1951年に追放が解除された後、再び、大臣に返り咲き活躍する。
東西の冷戦が激化する中、米、ソ、互いの核実験合戦が過激になってゆく中、核の脅威に地球規模観点から人類の未来に危機感を募らせた湛山は、互いに敵対して争うのではなく、寄り添い共存してゆく道を模索していきます。
この時期、アメリカの水爆実験でその水域に出くわした日本の船員たちが、ひどい被爆を受けていました。この生々しい現実には、ほんとうに驚かされます。
引用文:*** ************* **************
「互いに猛烈に原爆、水爆を用いる結果は放射能が交戦国ばかりでなく、全世界に飛散し、漲り、実に悲惨な状態を呈するであろう。こうなっては、もう人類はおしまいである。」
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実際に行われていた実験、映像で見ました。CGを駆使して作り上げた映画のように見え、それは本物のようにすざまじいものでした。・・っていう入れ替わった視点から見てしまうほどに、衝撃的な映像です。--もっと分かりやすく云うと、へっ?これっ 映画の中のお話でしょ?実際にこんなこと有り得ないでしょ?って感じ。信じがたい映像なのです。
アメリカに戦争終結前、核爆弾を落とされ、惨めなあり様で降伏した日本。
植民地化されなかっただけ、儲けもの・・とマイナス思考で捕らえてもおかしくない状況の中で、
例えば、進駐軍に対して、無駄にお金使いすぎっ(おかしい点はおかしいと云える)・・とはっきり物申す気骨さ。
※ 気骨-自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気。
気骨のある- He had a firm character.
※ firm - 信念の断固とした
気骨のある人- He was a person of character.
総理大臣になる二年前・・・通商産業大臣の頃、中・ソとの国交回復を主張して、アメリカに反発を受ける。
そんな中、
引用文********** *************** ****************
アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。
このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は
「アメリカの意向は無視しましょう」と言い放った。
1955年11月、日中輸出入組合の結成を支援し中共との貿易が軌道に乗るようになる。
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こうして湛山は、国交回復の前哨戦ともいうべき、貿易等にまず力を注いでゆきます。
昭和31年、どちらかというと米追従色の濃い、岸信介氏と総裁選を争い、6~8票(数票)差という微票の差で
内閣総理大臣に就任した湛山は中国・ソ連との関係回復を目指します。
しかし、全国10箇所、遊説行脚という強行軍?が災いしたのか? 病に倒れ、総理の職を退く。
故に短期間在任の総理大臣となってしまったのである。
しかし、その頃中国の台湾への攻撃が開始され、台湾を後押ししていたアメリカが参戦。
きな臭さの増幅する中、危機感を募らせた 湛山は、なんとか両国及び、ソ連をも巻き込んで平和同盟を樹立させるべく野望を胸に、中国へと旅立つ。(総理大臣でも大臣でもなく、武士でいうところの 丸腰で!!)
中国の
周恩来首相との会談実現まで、長い時間を要しましたけれど、なんとかこぎつけた湛山は、その心意気と変わることのない強固な主義主張(
冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張)で、そしてまた時勢の幸運に支えられ?
引用文******** ************** *********
この主張は、まだ国連の代表権を持たない中共にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。
周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。
「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年、中共との貿易が再開した。
この声明が後(13年後)に第1次田中角榮内閣での日中共同声明に繋がったともいわれる。
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恥ずかしながら、過去にこのような政治家が存在したことを、全く(名前すら)知りませんでした。^^;
湛山という人に 惚れてしまいました。(惚れっぽいですね。 大笑)
自分があまりにも軟弱なので・・・尊敬してしまいます。
【参考文献】
そのとき、歴史が動いた
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2007_07.html
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1