笠原くんの時間をかけてお母さんを説得して認めて貰いたい
という気持ちは判るけれど、私はお母さんから見合いをして
いい女性(ひと)が見つからなかった時はふたりの付き合い
について考えてみてもいいという条件を出された時に決着を
つけて欲しかった。私と一緒になるのか、別れるのか。
だって、私から母親を捨ろなんて言えるはずがない。できる
ものなら話したくはなかったけれど・・。
『10月の終わりのご両親との顔合わせのあった日、洗面所
でね、笠原くんのお母さんに言われたの。』
「洗面所で!」
『うん、私が食事の後で一度席を立った事があったでしょ?
覚えてないかな?』
笠原くんは一生懸命あの日の記憶を手繰り寄せようとしてい
た。すぐに思い出せない彼に少なからずがっかりした。
私の後を追うようにして洗面所に入って来て、言いたい放題
の母親だった。あのお母さんだよ。大概自分達も今までに何
度か振り回されてきてるだろうに、私を追いかけて来て何
かひとこと言ったとは思わなかったのか。思わなかったから
記憶にも残っていないのだろう。
「そう言えばそんな事あったような。君が席を立った後で親
父からしっかりしていて、きれいでやさしくて気立てのいい
人じゃないかって黒崎さんの事を褒められたもんだから舞い
上がってしまって、母と君が洗面所で一緒になった事もあま
り気に留めてなかったみたいだね。」
少し申し訳なさそに笠原くんが言った。
『そっか、そうだったんだ。お父さん、そんな風に言ってく
ださったのね。今度お会いしたらお礼言わないと・・。』
って、私何言ってンだろう。
もう会う事もない人に・・と、胸の中で呟いた。
遠距離恋愛が難しいと聞いた事があるけど、今ふとそんな事
が頭に浮かんだのは久しぶりに話す黒崎さんとの距離が少し
離れてしまったように感じているせいだろうか。
うちの母が何か失礼な事を言ったのかな?僕が聞くと彼女は
意を決したようにあの日の事を語りだした。
『息子は高学歴で未婚なのですから年上というだけでなく
バツまで付いているあなたとは不釣合いです。あなたにとっ
てはどこまでもしがみ付きたい優良物件でしょうけれど止め
てくださいよ。あの子の人生を無茶苦茶にしないでいただき
たいわぁ~。あの子には初婚で年下、子供もちゃんと産んで
貰える娘さんを探してお見合いさせますから。
笠原くんのお母さん、そうおっしゃったの、あの日。』
「ごめん、疑うつもりはないけどそれ本当に?
そんな事を?」
はっきり物をいう人だけど、息子が好きになり大切に思って
いる女性(ひと)にそこまで言うとは、俄かに信じることが
出来なかった。
笠原くんが信じられないって思うのも無理はない。
こんな酷い事を息子の恋人に面と向かって言える人間が世の
中に何人いるだろうか。だけど残念ながら言える人の中のひ
とりが残酷なことにあなたの母親なの。
『うん、実は私、あの日は失言とかがあるといけないと思っ
てずっと録音してたの。失言があったら家で反省会しようと
思って。』
私はイヤホンを付けて笠原くんに録音機ボイスレコーダーを
渡した。一連の私の言動を狐につままれたように聞いていた
笠原くんはこわごわボイスレコーダーを受け取った。彼の顔
がみるみるうちに険しい表情になっていった。聞き終えた
時、苦しそうに喘ぐような口調で私に言った。
「あの日、君はこんな酷い事を言われてたなんて。何て詫び
たらいいんだろう。ごめん、こんな失礼な事を君に言ってた
なんて!知らなかったとはいえ、その上僕は見合いまでして
君を愚弄してたってことだね。」
『笠原くん、私達の結婚は無理だわ。お母さんの反対を覆す
ことは難しいと思うのよ。お母さんのおっしゃってる事もあ
ながち間違いじゃないし。笠原くんは祝福される結婚をする
べきよ。笠原くんにはきっと若くて可愛いお嫁さんが来てく
れるわ。お付き合いした私が保証する。元の同僚に戻りまし
ょう。』
今まで言いたくて言えなかった言葉を私はその日、笠原くん
に放った。私は何か次の言葉を探している笠原くんにその機
会を与えず席を立った。笠原くんのお母さんとの顔合わせの
日からそう遠くない日に、お別れの日が来る事は判っていた
のだし、そもそもあの直後から恋人らしい付き合いも中断し
ていて今更のような別れなのに、それでも私は悲しくて
寂しかった。
前の夫との別れから7年間誰とも付き合わず、ずっと一人で
過ごす日々は味気なく寂しかった。そんな時に現れた笠原
くんにどれほど心癒されたことだろう。